老親のみならず、自分自身の認知能力に信用がおけなくなった今日この頃、『「痴呆老人」は何を見ているか』の題名に惹かれるとともに、作家の五木寛之氏が自分の読んだ本の中で、3本指に入ると絶賛した言葉をきっかけに、本書を手に取ってみました。

 本書は、臨床医として地域医療や終末期医療に長年取り組まれた経験を持つ筆者が、「認知能力がすでに傷害されつつあることを自覚している筆者は、それを窺うにあたり、ユニークで適切な位置を占めているように思います。(なにしろ彼らの世界の入り口に立って、後ろを振り返って現場報告をしているようなものですから。)」との立場で、痴呆とは何かということを、非常に判りやすく解説されています。

 その中で筆者は、「痴呆」を病気と見なすかどうかは(アルツハイマー型認知症や脳血管性認知症を除く)、文化や環境に大きく左右されると考えており、例えば、「自立性尊重」の倫理意識が強く、自己の自立性を失ってしまうことを非常に恐れているアメリカでは、少しでも忘れっぽくなってしまうと、それだけで「病気」だと思ってしまうが、沖縄のように敬老思想が強く、老人が尊敬され、あたたかく看護されている地域では、徘徊や幻覚などの特別な異常行動が見られない限り、例え少々認知機能に障害があっても、それはあくまでも「老いの過程にある正常な人間」として周囲から見られていると説明されています。

 また、痴呆老人にとって大きな問題となる徘徊や幻覚などの異常行動は、その老人のおかれた周囲の環境に影響されること、また、それらの異常行動が現れないかぎり、「老いの過程にある正常な人間」として、社会の中で平和的共存が可能であるとのお話しは、老親に対する接し方として非常に考えさせられることでありました。

 さらに本書では、痴呆老人に関することばかりでなく、自己と社会との繋がり方の稚拙が「ひきこもり」という現象をもたらしており、そのような若者を生み出している日本の教育に問題があると提起され、認知能力の低下を恐れる世代(私)だけでなく、子育てに係わる若い世代の方々にも役立つ有用な読み物と思いました。

 読み終わると優しい気持ちになる本ですので、是非皆様にお勧めしたい1冊でありました。

column 043
『「痴呆老人」は何を見ているか(大井玄著 新潮新書)』を読んで
瓜生 裕幸
Home ColumnTop